豊臣政権期の桑名や北伊勢に関する文書は数少なく、同時期の歴史像を示す貴重な史料である。この文書は家臣の天野周防守雄光に宛てた豊臣秀吉朱印状で、秀吉の署名はなく朱印のみが押印されている。折紙形式で、様式から天正年間後半から秀吉の亡くなる慶長3年(1598)までのものと思われる。文字的にも紙質からみても当時のものとみて間違いない。
内容は、滝川雄利に命じた米2万石を入れる蔵を用意して早急に米の搬入を申し付けたもので、天野には当地での米の番も命じられている。また、美濃国から積み出した米を小船で桑名へ運ぶことにも精を出すよう述べている。桑名や北伊勢は天正11年(1583)以降織田信長の次男織田信雄領であったが、同18年の信雄改易以後、豊臣政権の直轄領や家臣の所領となり、そういったことからこの文書も天正18年以降のものと思われる。2万石の米を入れ置く蔵を桑名に設置し、早急に米を運びこむような事態は、天正20年〜慶長3年に起こった朝鮮出兵が該当し、この文書は朝鮮出兵の兵粮米調達に関連するものと思われる。文末に「猶石田治部少輔可申候也」と、石田三成が奏者になっており、秀吉朱印状で石田が単独で奏者になっているのは、島津家に対するものを除けば、ほとんど天正17年〜20年に出されたものである。そのことから考えるならば、この文書は、朝鮮出兵開始直前の天正19年(1591)の可能性が高い。いずれにせよ、この文書から桑名が朝鮮出兵に際して、伊勢国や美濃国からの兵粮米の集結場所となっていたことなど、当時の豊臣政権下での桑名の様相がわかる重要な文書である
。
|