梅花仏、一名鑑塔は俳聖松尾芭蕉の門人の各務支考(俳号獅子庵、東華坊など)の分骨供養塔である。 支考はいうまでもなく蕉門十哲の1人で、美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていた。 支考は宝永8年(1711)に佯死(ようし)して、住んでいた同国山県郡北野村(現岐阜市山県北野)の獅子庵に自分の墓を建てた。 この墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しており、鑑塔と称した。 支考が実際に死んだのは享保16年(173
1)である。 この頃桑名では美濃派の俳諧が流行しており、その指導的立場にあったのは支考の直門の雲裡坊杉夫(別号有権坊)であって、彼は桑名本願寺住職を務めていたと思われる。 そして彼は師支考の没後に、その人物を片田舎に埋もれさせることを惜しみ、分骨を受けて北伊勢の門人たちの手により本願寺に鑑塔を建立し、「桑名万句」を編するなどして支考の霊を供養するとともに、東海道を往来する旅人にも参詣させようとしたのである。 そしてこの前後に雲裡坊を初代社
長として北伊勢美濃派俳人等を統合し、「間遠社」が結成されて、これが200年後の昭和18年頃、社長は10代まで存続してきていたのである。 鑑塔は獅子庵にある鑑塔である。 また美濃国本巣郡北方村(現同郡北方町)西運寺境内にも同様の鑑塔がある。 銘文は最上壇の円鏡形の正面「梅花仏」、裏面「享保辛亥二月七日」右「東華坊分骨」左「門人小子杉夫建之」最下壇台石の正面「北勢門人等恭建」と彫っている。 このようにこの鑑塔は桑名における俳諧史の隆替を
理解する上で大きな役割を果たすものである。 なお雲裡坊は宝暦12年(1762)66才で没した。 また松平越中守再封後に蕉門雪中派(十哲の1人服部嵐雪の一派)が桑名に移植され藩士を中心に流行したようである。
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