指定文化財区分
市指定文化財 
指定文化財種別
記念物 
指定文化財種類
史跡 
指定文化財名称
芭蕉「野ざらし紀行」跡白魚句碑等
ばしょう「のざらしきこう」あとしらうおくひとう
数量
6基 
形状
@400×150×21
A149×65×14
B130×90×34
C63×85×25
D66×120×22
E61×40×20
高さ×幅×厚さ(cm) 
年代
昭和41年(1966)3月 
指定日
昭和43年2月20日 
所有者名
地蔵自治会 
所有者住所
地蔵 
管理者名
地蔵自治会 
解説
 地蔵地区揖斐川堤防裏法面にコンクリートブロックで築かれた台地は8m×6.5m(52u)で、入口に空地をとり、句碑群をブロック塀で取り囲んでいる。
内部は築山に樹木を植え、句碑4基、塚1基、庚申塔1基、計6基をあしらい、入口に高さ2.5mの史跡碑1基がある。
当史跡地は明治後期までは揖斐川河中に突き出たところにあって、郊外の絶景地であり、白魚漁の中心地をなし、地蔵堂境内には灯台の設備もあった。
しかしながら明治中期からの河川改修と共に新し い堤防ができると、地蔵堂も堤防上に、庫裡その他は堤防下に移った。
「野ざらし紀行」の芭蕉が木因(ぼくいん)と共に、貞享元年(1684)の冬、この地に遊んで名句を残したところも上述の地で、現在は河中に没している。
明治36年に(この頃、全国的に句碑建立が流行したという)は、この地蔵堂横に新しく白魚句碑(桑名間遠社建立)ができ、以前からの白魚塚、千鳥句碑、庚申塔、宝筺印塔(魚介類供養)と共に永く文学遺跡として親しまれてきたのであったが、昭和34年9 月26日の伊勢湾台風の折、地蔵堂前の堤が破れ、地蔵堂(真言宗竜福寺)から墓地全部流没し、住職一家も犠牲になり、句碑群も亡くなった。
昭和38年2月、名四国道開通に当たって来桑した建設大臣故河野一郎氏は、初めて現地の事情を聞き、且つ地元から陳情もあって、即座に史跡再建に同意し、39年春竣工をみた。
流没後発見された碑は(当時の文化財調査委員は台風後60回以上捜査に当った)CDEの3基で、新しく再建されたものは、@とB、Aは初めて建てられた。
@白魚句碑 「明ほのやしら魚白き事一寸 芭蕉桃青」碑面の筆跡は芭蕉白魚短冊を拡大し、田中塊堂博士が「かごうつし」(双鉤)した原稿を刻んだもので、旧碑は「白き事一寸」の5字を第2行に送ってあったが、本碑は原本通りとしたため、旧碑より1.5倍の大きさになった。
この句の成立は野ざらし紀行の貞享元年10月、桑名本統寺3世の大谷琢恵(俳号古益)を訪れ、ここに一泊し翌朝浜の地蔵に遊んでこの句を得た。
句はもとAに示す「雪薄し」であったが、後日(貞享2年 か)推敲されてこの名句になった。
A初案句碑「雪薄し白魚しろき事一寸 芭蕉翁」「白うをに身を驚な若翁 木因」芭蕉初案の句と同行した大垣の木因の句で、もと地蔵堂の柱にかけあった聯の表裏に書きつけた原本から写して刻んだ碑で、はじめて建立したもので、鑑賞者のためと翁の行実に忠実ならんと欲したものである。
B白魚塚 この白魚塚はもと約50cm程の自然石で、裏に「東武一桑東 魚光建之」と刻み、句碑より最も古くあったが、伊勢湾台風で流没不明となったのを惜し んで新しく桑名時雨蛤商組合によって再建されたものである。
C「浜の地蔵とて絶景の地有いつれの春にやはせを翁もしら魚の一句を此堂の柱に残されたりとかやわれも此秋此佳境にたたずみて」蛤の宮殿見たり霧の海 麦林」裏面に「大正乙丑 兎月(2字不明)」麦林は麦林舎中川乙由(伊勢山田の俳人)のことで、この句は「麦林句集」に所収、芭蕉を追慕し白魚の名句に惹かれて、この地を訪ねこの句をよんだ。
兎月は汀庵千葉兎月、桑名間遠社を宰した美濃派の俳人。
D「闇 の夜や巣をまとはして鳴くちとり はせを」裏面に「当山 入真代 文桃子貴楊建之寛政五龍集癸丑冬十月十二日 芭蕉翁没後当百年 辟児房敬写」この句は当地には関係ないが、千鳥が沢山いるので翁百年忌の寛政5年(1793)冬、供養のため貴楊が建てたとある。
E「庚申塔」裏面に「寛政十二年(1800)庚申九月建之 南魚町 森伝左衛門」庚申塔はもと3基あって元禄15年と天明年間のもの2基が流没した。