指定文化財区分
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県指定文化財 |
指定文化財種別 |
記念物 |
指定文化財種類 |
史跡 |
指定文化財名称 |
桑名城跡
くわなじょうせき |
数量 |
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形状 |
吉之丸の一部13,143坪の地域 |
年代 |
文禄年間 |
指定日 |
昭和17年1月17日 |
所有者名 |
桑名市ほか |
所有者住所 |
中央町2丁目37番地ほか |
管理者名 |
桑名市教育委員会 |
解説 |
史跡地に指定せられている地域は、鎮国守国神社を中心とする字吉之丸の一部13,143坪の地域であって、旧桑名城々内の約半分ということができる。 現在の市営プール、同駐車場、柿安、鎮国守国神社、九華公園グランドで、字二之丸の公園一帯は含まれていない。 指定区域に入るところには、通称御本丸という城の中心部、その東の朝日丸、北の御殿、揖斐川に面した城壁の一部があるが、本丸周囲の堀、御殿三方の堀など大部分は埋立てられて旧観はなくなり、昭和34年の伊勢湾
台風後、揖斐川沿岸に残っていた長い城壁も、高潮防波堤に改修せられて一層風情を失ってしまった。 この地に初めて城を築いたのは、伊藤武左衛門で、元亀以前のこと、当時は東城と称した。 桃山時代になると、文禄年間、一柳右近が神戸城の天守閣を移して結構なり桑名城と称した。 関ヶ原戦後、慶長6年(1601)本多忠勝が就封すると、初めて桑名を町割し、堀を作り、城普請をして天守、三之丸を定めて城下町桑名を形成した。 元和3年(1617)松平定勝就封
後には、南の方二之丸が増築、寛永12年(1635)松平定綱就封後には、川口より南の方の揖斐川沿いが修築されて、東海道の名城とうたわれたが、松平定重の元禄14年(1701)大火によって、ほとんど灰燼に帰し、その後、再築修補せられたが、天守は再び成らず、明治維新に至っては、幕軍方の旗頭であったため、開城の後に一部は焼かれ、明治4年廃藩後は城内の遺構取り払われ、城石は、四日市港防波堤資材となり、堀は改変せられて貯木場(帝室林野局熱田出張所々管)、御殿及び本丸の一
部は東洋紡績工場(現柿安他)となって現在に至った。 桑名城の総構(そうかまえ)は、揖斐川の水を利用し、赤須賀門より伊賀町、柳原、新屋敷、伝馬町(七曲り)から、鍋屋町を経て北折、一色町、三丁掛より寺町、太一丸を流れて、住吉へ注ぐクリークから成っていた。 この地形は丁度扇状をなしているので、桑名城を一名「扇城」とも言ったという。 松平定重転封当時の城廓引渡帳には「櫓数51(三重櫓3、二重櫓24、附櫓24)多門12、門46(内舟入門1、埋門2)
井戸14、水門3、武具蔵9」と記されている。 特徴は舟入門で、水城であるということである。 <注>本丸にある鎮国守国神社は藩祖松平定勝の第3子で、越中守初代城主松平定綱公(鎮国大明神と称す)と越中守9代松平定信公(守国大明神と称す)の両者を奉祀する。 摂社に旭八幡社、日吉菅原社、招魂社、稲荷社。 境内に天守台跡があって、丘上に戊辰殉難招魂碑があり、公園入口に森陳明殉難を表彰する精忠苦節碑がある。 また楽翁公百年記念に建てられた
宝物館には、定綱及び定信両公を中心に収集した遺品千数百点を公開している。
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