3基並立しているなかで、向かって右端が水谷光勝の墓、五輪塔で空、風、火、水、地輪の各4面に「南無妙法蓮華経」、地輪中央に「昌慶位」、その両側に「真如院逆修元和四暦戌午七月吉日」(1618)とあり、中央は同形で光勝の妻、地輪には光勝墓と同じく「妙寿位」、「安立院逆修元和四暦戌午七月吉日」とある。 逆修とは生前建立の墓で、実際の没年は光勝は寛永7年(1630)12月12日、妻は寛永8年8月8日である。 向かって左端の浄智院澄月一栄位(寛永5年7月18日)
は当寺過去帳に「古帳損□之故不分明」となっている。 水谷九左衛門光勝の出自(生地)については詳伝が伝わらぬので残念であるが、推測すれば伊勢塩浜あたりであろう。 徳川家康最大の難とされる伊賀越え(本能寺変の時)の折、伊勢から三河への渡海に案内をしたのが光勝で、その後四日市代官、名古屋城築の作業奉行、山田奉行などを歴任した。 春日神社文書(桑名神社、中臣神社)にも光勝在判の朱印状が残っている。 器量人に勝れた人物であったことは窺われるが
、寛永7年12月讒(ざん)に遭って卒した。 詳細は不明、なお当寺の修築再興にも力を致している。 現存する当時の墓碑の内で、最も古い墓である。
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