作者信濃掾藤原国次、元禄10丁丑歳仲夏16日、青銅支那式梵鐘、本鐘の様式は普通朝鮮式と呼ばれるがその本体は寧ろ中国の梵鐘に規範を求めているやに思われる。 特徴は下方駒の爪と称する口唇が中国明朝以降の鐘の如く波状形に、高さ0.8p、長さ16cm位の間隔をおいて、上下に八ツ割れして駒の爪を周回していることである。 もう一つは和鐘の如く袈裟襷(けさたすき)の筋を除き、下帯と池の区、乳の区が退化した上帯と、饅頭型の笠型に双頭の竜頭を置いて形成したこと
である。 四区には各種の文様を鋳出し、池の区に弥陀観音、地蔵、釈迦の座像、周辺に薄肉の飛雲が取り巻き、乳部に日月と柏茗荷(かしわみょうが)の家紋を鋳出している。 施主檀那杉山八蔵公憲は桑名藩の甲州流兵学者で同寺山門内の江州和尚銘石にも名が残っている。 作者信濃掾国次は和田吉兵衛と称し、京都三条釜座の座衆筆頭で元禄13年(1700)知恩院に口径2m70cm、重量30tの大鐘を初め、数多くの銘鐘を作った鋳匠で、本鐘と同年に宇治黄檗山万福寺に口
径1m、重量1.2tの洪鐘(同形のもの)を仲秋に納めている。 従って本鐘は万福寺の試作として鋳たものと思われる。 技法は卓抜、優美洗練された装飾殿鐘である。 鐘銘は陰刻、他は全部浮彫陽刻になっている。
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