「正真」と切銘する刀匠は今昔を通じて、古刀期に12名、新刀期4名、現代に1名あり、郷土刀工の千子正真に関しては徳川時代の承応3年(1654)刻本の「三浦伯玄正秀伝書」には2代村正(所謂 永正村正)の二男也とし、昭和13年8月20日発行の故藤代義雄氏著「日本刀工辞典 古刀篇」(昭和39年10月20日、実弟藤代松雄氏の校閲に依り増補改訂後出刊)では“千子村正の一門、凡そ永正・大永頃の人”としている。 更に千子正真の現存刀の内に村正の作風に余り接近してい
ない作も含まれているので同名が2・3代続いたか、或いは国を異にしていたのではないだろうか。 即ち千子正真の作柄は大別して大和伝臭の強いものと、村正を彷彿させる出来のものとの2通りあるが故で、これは当時(戦国時代…主として応仁の乱以降)は需要供給の鉄則に従い、刀鍛冶の転地振鎚する者が多く、例えば山城鍛冶信国一派の豊前、了戒一類の豊後への移住、備前吉井一族の出雲転居等、彼正真も同じようなケースに辿った一人であろう。 現存刀の作風より推測すれば、元
来正真は大和鍛冶の手掻派、或いは金房一門に属した刀工であり、伊勢地方の豪族の招引か、枝法錬磨のため離郷し、雲林院を経て桑名に赴き、2代村正の門に学んだのであろう。 その理由は彼の初期作と鑑られるものは、地鉄に柾目肌が多く混り、刃文は沸出来となり、何処かに「ほつれ」か砂流し気味のところがあって、鎬筋が高く大和伝めいた作柄であり、中期から晩年作は必ず腰刃を焼き、激しい出来のものが多くなって村正に酷似の作風を示している。
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