面積は約100坪余、但し昭和34年9月の伊勢湾台風後、高潮防波堤高さ4.5mの規定が河川堤防にも適用されることとなり、この地の工事施行工方法に就いて、調査会及び公聴会が度々開かれた結果、史跡地は本来水に連なっていてこそ渡し場として自然である、という眼目を重んぜられ、水際に立てられる予定のパラペット案は除かれて、現状のように道路上に設けられ、昔からの渡し場は保存せられることとなった。 向って右方対岸の城壁(広重保永堂版々画にみられる)も堀入口に巨大な
樋門が工事されることとなり、このあたり旧観は全く消え去ったが、再三の調査会からの要望の結果、旧城隅櫓石垣の突角一部は、原形を復元して旧位置に辛うじて残されることができた。 この渡しについての古記録は、連歌師柴屋軒宗長(享禄5年-1532-没85歳)の「宗長手記」があり、文永6年(1526)津島から渡海した折のことが詳しく記されて、みなとの広さが5、6町もあり、寺々家々数千軒立ち並び,船は数千艘と述べている。 慶長6年(1601)には城主本多忠勝
が就封すると、城下町の町割りを始め、城普請のため堀を設けたりして、都市計画を決行しているから、この時この渡しも従前どおり、船場として定められ、これに続く川口、江戸町、船馬町の町並も整ったのであろう。 また同年には東海道五十三次の宿場として、桑名宿御朱印が下げ渡されている。 七里とは尾張の宮の渡し(熱田)への海上七里を指すので、外回りと内回り(現長島町の旧青鷺川を利用するもので、長島を横断して木曽川へ出る)とがあった。 潮の干満によって両コ
ースが選ばれるわけである。 後年、木曽川上流の「佐屋の渡し」が脇街道として許され、熱田から陸路佐屋(6里)に出て、これより川船3里で桑名へ上れるようにもなった。 船は乗合船で34人乗、40人乗、47人乗、53人乗などがあり、船賃は各年によって高下があった。 一例を挙げると延享年間では、乗合1人前45文、筵1枚278文、荷物1荷45文、挾箱1荷46文、具足1荷45文、駕籠1挺139文、馬1匹278文という。 佐屋への舟賃は乗合1人前1
9文であった。 七里の渡しに要する時間は、これも天候、潮の状態に左右されるので、一概には言えないが、紀行文に記された所要刻限から推定すると、平均2時間半から3時間というところで、現在想像するより船足は早かった。 船場の様子は、川に面して左に築き出た石垣があり、そこに川口御番所があり、前には制札を掲げた高札場、正面は船着場、その右方に船役所、この役所前には皇太神宮の一の鳥居が建って(天明年間創建)、番所には東に向かって出窓があり、軒先に頑丈な”常
灯”という灯台代りの照明が設けられていた。 (現在建っている石灯籠は何等関係なく、また古図などによく見る櫓式の灯明台というものはなかった。 )番所には定番、御水主(かこ)、警固の者が詰め、怪しき者、不届きな者は上陸させずに熱田または佐屋へ戻した。 この船場は一般用で、他に本陣用、廻米その他問屋場用のものなど4か所があった。
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