沼波弄山(ぬなみろうざん)は桑名の裕福な商人、沼波五左衛門重長(1718-1777)で弄山と号し、幼少から覚々斎原叟(千家6代)や千如心斎(千家7代)に茶道を学び、長ずると桑名外れの小向(おぶけ)に窯を開いた。 万古焼の始祖である。 江戸に出店を持つところから、小梅にも開窯し、将軍家の御数寄屋道具御用命という事情があったという。 作風は温雅で、これに新工夫のデザイン、和蘭、交趾(こうち)風の舶来趣味を巧みに加え、数寄者間の好評を博した。
江戸万古、または古万古と後世称するものはこれである。 しかしながら、弄山は後継者なく、創始一代きりで絶たれたようであったが、のち瑞牙、あるいは後代になって、射和(いざわ)万古、有節万古、安東焼などを啓発せしめた。 墓は本堂横に高く築かれ、弄山墓には法名西誉方岸道一善士、それに並んで妻法名一誉心月映春善女が刻まれている。 安永6年(1777)9月13日60歳にて没し、妻は射和万古の創始竹川竹斎の曽祖父竹川政栄の女、寛政12年(180
0)9月13日に没している。
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